悪あがきの時代

たまに取材を受けることがありますが、なぜ木工の道に入ったのか、と聞かれても思い出すことができなくて困ります。学生時代からアパートの庭で友人の電話台や自分の書棚なんかを作っていました。もちろん趣味です。その頃出始めた Do It Yourself シリーズの本を頼りに道具を買い、同じく本を頼りにその道具を仕込み、本に書いてあるような使い心地ではなくともとりあえずそれで何かを作るといった具合でした。

途中一年休学して北米、中米をうろつくということがあり、それまで信じて疑うこともなかった「立身出世主義」を完全に打ち砕かれてしまいました。というよりも、この世界の価値は多様であるという簡単なことを知ったということです。よくも悪くも国家というものは虚構ですが、日本は特にその度合いが強いと感じるようになりました。「貿易国家」とか「資源を輸入して加工する事で付加価値を高める事でしかやっていけない国」であるとそれまでの学校教育で教えられていましたが、はたしてそうか。そう思い込んでいるだけではないのか。実はそんな事しなくても生きていけるのではないのか。そんな事を考え、結局そのように操作された価値でていよく搾り取られているのであると決める事にしました。30年前も今も地に足のつかない虚勢だけで成り立っている国であるのは変わりません。

卒業してすぐは特にやりたいこともないので、宝石の原石を輸入し、磨いて問屋に下ろすという会社に入りました。原石を買い付ける事務所が世界中にある会社ですから、いずれどこかの事務所に派遣されることを考えて決めたのでした。しかし骨の随からサラリーマンに向かないことを悟り、8ヵ月でやめました。会社という仲間内で完結しているような世界がとても気持ち悪く、小さすぎると感じてしまいました。唯一、いろんな石のグレードをきめる作業だけは好きでした。ルーペを通 して見える世界は地球の歴史そのものでした。

翌年、横浜市内にある注文家具屋の工場に入りました。 家具を作る、木のものを作ることが自分が望んでいることではないかと漠然と思っていたからだと、今振り返るとそんな気がしています。 大学の先輩が経営していることはあとで知りましたが、それがどうしたという程度の認識でした。何らかのコネクションに寄りかかる事を極端に排除していました。徒手空拳でこの人生に立つのだとずいぶん肩に力が入っていたようです。それはともかく、主にスーパーや小売店の内装家具を作る仕事は、かけ出しでもできることがあり充実していました。そのころ、きちんとした職人になりたいとおもいドイツかスエーデンの工芸学校に行きたいと考え始めていました。というのは、工場長という人が私と2つ違いでなにかと嫌がらせをするからでした。自分でもこの年からではやはりこういう理不尽なことに我慢できないからなんだろうとわかっていました。つい「理屈」を言ってしまいます。やはり昔ながらの修行にはついていけないというのが理由でした。結局そこも8ヵ月でやめてしまいました。