Uターンしてから拓成への移住まで

横浜の注文家具屋をやめたあと、木工の修行はやはりドイツかスエーデンでやろうと決めました。 日本では理不尽なことが多すぎるし、自分にはそれに耐えて修行を成就させる自信がないという、誠に虫のいい理屈でした。ドイツかスエーデンなら理不尽なことはないのかといわれれば、返す言葉もないのですがその時はそういうことにしていました。とにかくこれで日本とおさらばできるという嬉しさで、横浜のアパートを引き払い取りあえず北海道の実家へ引き上げることにしたのでした。もちろん親は呆れて何もいいませんでした。

その後すぐにヴァンクーバーでアルバイトを始め、工芸学校の資金をためることにしました。 以前何ヵ月か暮らして様子が判っていましたし、 時給も日本よりは良かったからです。 外国へ行きたがっていた妻と新婚生活を始めたのもこの町でした。27歳の選択でした。 ただ半年後、父からの電話で母の病気を知らされここも引き上げざるをえないことになってしまったのでした。必ず戻ってくるつもりでいろんな荷物を知人に一時引き取ってもらって帰国してみると、母の病状は深刻で私たちが見舞った翌日あっさり他界してしまったのです。これにはおおいにがっかりし、心身共に脱力してしまいました。カナダへ戻ることも工芸学校も何だかどうでも良くなってしまい、しばらく日本にいてみることにしたというわけです。

それからは岩見沢や札幌であれこれ長続きしないアルバイトをしていました。妻が妊娠したこともあり、なんとか自分が一生打ち込める仕事を探そうとしていたと思います。ちがう、ちがうとおもいながら決定的な仕事がないなあなんてひとりよがりにからめられている時、知り合いの塾を手伝うため帯広へ引っ越してきました。中学生に英語を教えることは、自分も彼らの新鮮なエネルギーをもらって生き返るようでした。この頃長女が産まれました。親バカチャンリンで、中学生に自慢してはひんしゅくを買っていました。珍しくこの塾には2年勤めました。

この間、都市の生活に大きな疑問を持ち始めていたと思います。生活の基本的な部分(電気、水道、暖房方法など)を他人に握られていることは、不自由の象徴ではないかという具合でした。「暮らし」のもっとも具体的なところが見えないのは、自分を堕落させていくようで、生殺与奪の権限をだれかに預けているようで、 とても許せないと考え始めていたのです。H.D.ソローの「WALDEN (森の生活)」からも大きな影響を受けていました。自分が生きていく時の根本的な形といいますか、生き物として生きるのに必要な形をまず取り戻したいという強い欲求がありました。本能的といってもいいほどに激しいものでした。都市の生活ではそれは不可能です。これが拓成へ移住しようとした一つ目の理由です。

もうひとつは、カナダで目にしていたログハウスを建てたいという夢がありました。当時カナダで活躍していたアラン・マッキーさんの本を何冊も買ってきていましたので、そのうちの一冊を翻訳して何だかもう既に一軒建てたような気がしていました。あとは土地を探して建てるばかりとなっていましたが、その土地が簡単には見つからず、最終的に拓成の離農あとに入ることにしたのでした。