楓舎小屋便り

2019/8/30

奴隷国家、日本。

2019年収穫間近の梨

 ナシがもうすぐ収穫できそうです。昨年はうらなりで二個しかつきませんでしたが、今年はまた枝が折れそうになるほどつきました。138億年と言われるこの宇宙の誕生の果てにこうして与えられる実りを、毎年毎年不思議に思い驚きます。

 ところで鹿島茂によれば、吉本隆明は大衆を次のように定義しているそうです(「吉本隆明2019-7」鹿島茂ー月刊「ちくま」9月号より)。今日、自分と家族が生活できること、そして明日も生活できることだけがさしあたり重要だと感じているから、たとえ政治状況や社会状況が未来の生活に関わってくると教えられても、生活が直接的に脅かされない限り、状況について考える必要を認めず、また考えたからどうなるものでもないと思っている。いいかえれば、生活とそれに関連したことしか考えないから、幻想というものをほとんど持たない。あるいは生活に直接的に関わるところにしか幻想を持とうとしない。

 私は吉本隆明をまだ何も読んでいませんので、鹿島茂のこの文章をさしあたりもとにして次のようなことを考えるのです。先月の参議院議員選挙の結果を見る時、ああなるほど、大多数の「大衆」ならこの結果はむべなるかなです。目の前の生活だけが何より大事と思う人々が選ぶのだから、目の前の金と権力だけしか頭にない人格破綻したような議員ばかりが当選を果たすのです。これの何が悪い?と言われれば、私に返す言葉はありません。その国民の程度に合う政治しか行われない、というのは間違っていないと改めて知らされるばかりです。投票率が5割以下というのも同じです。すぐに命を取られるわけではないのなら誰がやっても変わらない、という理由で棄権することが、その後何をされても文句を言わないという意思表示になり、いずれ命を取られるような法律を作られることになるかもしれない、ようなことは想像もしないのです。何事かをもくろむ権力者にとっては大変都合が良い行動といえます。

 「大衆」のこの考え方と行動が、では何をもたらしているのかと言えば、1945年の敗戦から74年間の奴隷国家です。言論の自由も旅行の自由も引っ越しの自由も職業選択の自由もあるし、奴隷なんかではないでしょ?と「大衆」は考えることでしょう。しかし、なぜ沖縄では日本政府も米軍もあれほど地元住民の意思を踏みにじることをしているのか、と問えばなんと答えるのでしょうか?「自分さえよければそれでいいじゃないか。沖縄のことまで考えてられない。」というあたりでしょうか。長いものには巻かれろ、寄らば大樹の陰という悲しい「知恵」が、よけいな波風を立てない、「エライ人」の言うことに逆らわない、家畜のような奴隷根性を身につけさせてきました。奴隷が選ぶ「政治家」が奴隷のような政治しかできないのは理の当然とも言えます。

 ソ連という国は誕生から崩壊まで70年弱、ロシア革命から数えても74年です。一つの国が存在したのと同じ期間、日本はアメリカの属国であり、沖縄を見殺しにしつつある「奴隷」が支配する国です。

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