楓舎小屋便り

2017/11/28

憲法第9条のこと

 2017年11月初冬の雪  

  いつもそうですが、冬は突然一気にやってきます。昨日までぽかぽかしていたのに今朝は一面真っ白、という具合です。気温も急降下で、体がうまくついていきません。こうして否応なく私たちは季節を受け入れます。もし自分で、さあ今日から冬にしようと決められるとしたら、きっといつまでも冬にはしないでしょうね。寒いし除雪はしなければなりませんし、暖房費もかかるし。でもスキーなど冬のスポーツをしたい人は年中冬にしておきたいでしょう。こんなこと人間に許したら、それこそこれが原因で戦争さえするかもしれません。なんだか、人間て困った存在です。だから自然の摂理は神の領域なんです。

  いつだったか、知り合いの女性にこんなことを言われました。
「よそから移住してきた人ってだいたい小難しいこと言ったり書いたりするよね。」ある種侮蔑の色のある言葉でした。地元にいる人はそんなこと考えないのかと突っ込みたくなりますが、まあそういうことらしいです。代々受け継がれてきた考え方に乗っていれば何の問題も苦労もない、ということなのでしょう。それはそれで文化と考えることもできますから、私はそのことをとやかく言うつもりはありません。ただ、代々受け継がれてきていない問題が目の前で起きたとき、どうするのか。そりゃあやはり何か考えざるを得ないでしょう。人の意見に耳を傾けることも必要になります。いろんな形で情報を集め、整理し、検討を加えるはずです。そうして何らかの結論を出し、未来へ向かうでしょう。
この時「小難しい」からと言って安きに流れる場合もありますし、それではいけないこともあるのです。安きに流れることだけが許されていけば、いずれ必ずその集団は精神のよりどころを失い消滅します。あるいは「かね」だけが価値の基準になってしまいます。仏教で言うところの「餓鬼道」です。 現在の日本はほぼこの状態でしょう。

  小難しいことを、どうしても考えておかなければならない場合があります。今国会でも盛んに論議されている憲法に関する事柄は、社会生活を送る市民の最低限の作法ともいえるものです。戦後70年あまりその内容についてのわずかな知識は持っていても、憲法そのものをしっかり読むということはないままここまできているのが、私を含め大方の日本人でしょう。しかし今、戦前の狂気の支配をもくろむ安倍政権のような政治集団が、おおっぴらに憲法改正を言い始めています。こうなると、国民一人一人があの戦争と結末についての知識を深め、今後の日本はどうあるべきかを考えなければなりません。再び牛馬のごとく言われるがまま人殺しに出かけるのか、それともそんなことは誰の幸福にもつながらないことを主張するのか。現憲法の価値はいったい何か。自分の生き方にどのように影響しているのか。ひとつひとつ確実に理解しなければ、憲法を変えた方がよいのか、変えなくてもよいのかを判断することはできません。確かに話は抽象的で小難しいのですが、かといって誰かに判断を委ねてしまっては、すぐに自分の首が絞められることを知ることになります。「小難しいこと」を考えるのは、この場合国民の義務ということになります。

  哲学者、柄谷行人が憲法9条について独特の考えを述べています('17.11.27/毎日新聞朝刊)。「9条がGHQに強制されたことと、日本人がそれを自主的に受け入れたことは矛盾しない」なぜなら「戦争の断念は文化」だからだというのです。その先行形態として徳川幕府体制をあげています。「東アジア一帯の平和が実現されたこの時代の文化こそが9条の精神を先取りしていた。」ところが、明治になってからの近代化路線で日本が行った侵略や戦争に対する「無意識の悔恨」が、9条の土台となっていると説明します。だから、論理とか意識なのではなく「文化」ということになるのでしょうか。つまり血となり肉となっているのだということでしょう。そして「『戦争放棄』は単なる放棄ではなく、国際社会に向けられた『贈与』と呼ぶべきもの」であり、「もし日本が(字義通りの)9条を実行すれば、、、ドイツの哲学者カントが提唱した『世界共和国』の方向に国連を向かわせることになる」と言うのです。

  最後の点についてはやや楽観的過ぎるような気がしますが、9条を世界に向かって真正面から主張するというのは、魅力的です。そもそも自衛隊ができたのは、アメリカの都合だったし現在もその延長です。日本という国が憲法の命ずるまま「解釈」などしない字義通りの9条を実行したら、世界の草狩り場にしかならないのだろうか。それとも柄谷行人がいうように世界が理想へ向かう足がかりになるのだろうか。一度やってみてもよいのではないか。そんな気がしています。

 

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