楓舎小屋便り

2010/8/30

「英語社内公用語化」の滑稽

国際的な企業として生き延びていくために必要不可欠な措置、という触れ込みで始められた「英語社内公用語化」の話を聞いて、あきれた。もともと文化の象徴であることばを、あたかも自動車運転免許やパソコン操作能力と同じようなものとして社員に強いることで金儲けの手段にしようとする愚かさにだ。どのように愚かかといえば、言葉を文化としてではなく文明としてしまおうという何とも幼稚な発想であることがひとつ。たとえば身近な例では北海道東北にいた先住民であるアイヌをただただ金儲けの論理で攻撃、抑圧、同化しようとしてきたことと同じであり、たとえばアメリカ合衆国の西部開拓で繰り広げられた、問答無用のインディアン殺戮と同様の発想である。つまり、多様である文化の森羅を金儲けというブルドーザーで平に押しつぶす行為の準備をしたということだ。

 

二つめは、言葉自体が持つ文化的背景を無視してひたすら「普遍的」なものであるかのように見なすことで成立させようとする「公用語化」は、英語を母語とするものしないもの双方に最初から誤解を与える可能性が高くなるのは必然である。言葉の成り立ちを斟酌せず形だけをなぞるのは、しょせん通りすがりの観光客と同じであるし、ましてTOEIC750程度の力で国際的な企業となるとは考えられない(私が自分の「英語力」から類推すればどうしてもそういう結論になる)。

 

昔から企業の中には外国語を必要とする部門がある。かなりの専門職として活躍してきたし今後もいなくなる事はないだろう。全社員が彼らと同様の能力を持ってあらゆる判断をせよという要求は、片腕のない者に両腕のある者にしかできない事を求めるのと同じく理不尽である。内田樹が言っているように「日本の英語教育が英語嫌いを大量につくっている」現実を知りながらそういう要求を出しているのなら、当然相当数の社員はその会社を去るしかない。当座残るのはその要求を満たす能力を持った者(ごく少数)とそれを目指す決意を表明した者(大多数)だけになるだろう。しかも現在その能力を持つ者総てが、期待されるような「国際化」に貢献できる中身を持っているかどうかは、極めて怪しい。むしろ「おしゃべりができる」だけで、会社の重大な進路を決断するような事柄には無能な例ばかりになるのではないか。「おべんちゃら使い」という特殊能力を持った者と変わらない。

 

必要な事はまず外国語に対する敬意であり、それは異文化への敬意と同様である。言葉をそういうものとして受け止めかつ発する心構えがなくて、どうして意思の疎通などできるだろうか。「そんなものいらぬ、金になればよろしい」という声が聞こえそうだが、長い目で見ればそういう態度は必ず日本という文化への敬意を失ってしまう事になる。その意味では他人事とは思えない。大反対だ。

 

 

2010/8/1

「公務員制度改革」の根本

国破れて官僚あり

城春にして人々は去れり

時に感じては花にさえ課税を覚え

別れを恨んでは鳥にも金を運ばせんとす

烽火 三月に連なり

家書 万金を欲す

白頭 掻けば更に短く

渾て口舌に勝えざらんと欲す 

 

まさかこんな間抜けな官僚もいないこととは思うが、明治以来おだてられてきた官僚の中には、こんな輩もいることと想像する次第である。しかし笑ってばかりもいられない。「公務員問題」がなぜ問題かと言えば、彼らは国が倒れようがなくなろうが自分の給与は保障されなければならないと信じて疑わないところと、その給与が国民の税金であることを忘れていることだ。そう考えるとあながち上のような官僚、公務員は笑い話とばかりも言っていられず、実は案外多くて、日本の今の状態はまもなくこんな輩で溢れかえることになるかもしれない。そうなってもおそらく今や破綻してしまった法を楯に「国は給与を払え!」と叫びさまようものもいることだろう。

 

公務員制度を変える根本は以下の通りである。

*徹底的な業務の検証で、人員を半減する。

*労働基本権を与えて、民間並みに仕事のできないものは解雇する。「公務員は首にならない」という神話は即時廃止する。

*給与体系を改め、前年の税収にスライドして決める。仮に税収がゼロになれば、官僚公務員の給与はゼロになる。自動的に昇級するシステムは今後どう考えても不可能である。

 

これができたら時の政権は其の後30年は続くことになる。

 

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