楓舎小屋便り

2019/10/7

もはや革命はいらない。

2019年冬の薪

 この冬に焚く薪を作り終えました。6立方メートル余りを一冬で燃やしてしまいます。もっとあたたかな家にすればこれほど大量には必要ありませんが、60年以上前に開拓者が建てた家ですから、断熱材というものが入っていません。ほとんど外と一緒の生活なのです。雪が吹き込んだり凍り付くことはありませんが。なんとかしようと思いながら37年が過ぎてしまいました。この後一ヶ月ほど荒干ししてから小屋にしまいます。

 薪作りをしながらこの九月は加藤典洋を読んでいました。「敗戦後論」「戦後後論」「語り口の問題」(以上 1998年 講談社刊)、「敗者の想像力」(2017年 集英社)。ただの論理性だけではない、独特の言語感覚に慣れるのに時間がかかり、一度では理解しきれずに二回ずつ読みました。私の長年のもやもやした問題意識のようなものは、そうか、根本的にここが始まりだったのだと目から鱗が落ちる思いです。切れ切れながら、しかしあきらめず行きつ戻りつしながら考えようとしていたのはこのことだった、つまり日本は戦争に負けた国であることをきちんと意識していなかったということです。いまさら加藤典洋かよと突っ込まれそうですが、頭の回転がよくない私にとってようやくたどり着いた「足場」ではないかと感じています。同時に、一体この40年余り私はどんな問いに答えようとしていたのか、初めてそのことにも思いいたりました。そして私の人生を左右するような重大な問いはなかったのでした。ただ、いまだ解答の出ない素朴な疑問は在るのです。金持ちはなぜ果てしなく金をほしがるのか? 日本という国はそのままでは対外的に売れるものは何もないのに、なぜこれほど物があふれているのか? この経済の問題と思われる問いを、私は何十年も抱えています。

 私は1952年4月17日生まれで、その11日後4月28日に講和条約が発効し日本は「独立国」となりました。しかし実態は地位協定(当時はまだ「行政協定」)によって占領時代がそのまま続いていたのでした。そんなことなどほとんど関係なく北海道江別市の貧しい稲作農家に生まれ、8人きょうだいの6番目という立場できょうだいの中ではそれなりにもまれて育ったようです。小学生になると自分の家が貧乏であることを理解し、他の子供たちに比べて多少のみじめさを感じていたと思います。従っておそらく自然に「いつか金持ちになる」という意識が芽生えてきました。きょうだいの中で初めて高校、大学に進むと今度は「出世する」ことが加わりました。こうして22歳のときに初めて海外を放浪するまでこの立身出世主義は揺らぐことがありませんでした。 

 1974年当時メキシコとグァテマラの隣にベリーセというイギリスの統治領がありました。 アメリカ、カナダで見ていた黒人とは違う民族と思われる、文字通り墨のように真っ黒な黒人の国です。アメリカ、カナダで見た黒人は、黒人というよりも「茶色人」という方が正しい肌の色をした人々でした。どのような地域からつれてこられた人々なのかは今でもわかりませんが、ベリーセの人々は正真正銘の「黒人」なのです。しかも、男も女も痩躯で彫刻のように彫りの深い端正な顔つきです。美しいのです! 長いバスの旅の果てに、暑さでもうろうとした私は夢を見ているのかと思うほど驚きました。「美しい黒人」の存在に私の中の価値観、あるいは世界観が根本的に崩れてしまいました。それまで私が受けていた日本の教育が特に偏っていたわけではなく、しかし私の中に作り上げられていた後進国の有色人種は「土人」であるという無意識が白日の下で壊れたのです。単に私が「美しい黒人」のことを知らなかったことに気づいただけのことなのですが、自分の中に根拠なくできていた思い込みの貧しさ、愚かさを目の前に突きつけられた出来事でした。この後私の中に在った「立身出世主義」はあっけなく雲散してしまいました。

 1975年4月、帰国した時に見た羽田空港には、何かこの世とも思えないほどのありとあらゆるものがあふれていました。メキシコやグァテマラという「貧しい」国から帰ってきたからなのか、他にも理由があるのかわかりませんでした。何もなかったはずの日本にいつからこんなに物があふれてしまったのか、それは異様な光景だったのです。半年前に出かけていくときには何も感じなかったのに、半年間の私の経験が私自身を出発前とは別の人間に変えたからとしか考えられません。立身出世主義がはがれ落ち、わずかな地域だけではあれ多様に生きている人々の姿を目にして私の中には確かに変化がありました。おそらくこれが2つ目の理由ではないかと思います。私はそれ以前より「公平」な目を獲得していたのです。予断や偏見のより少なくなった目です。より自由になったとも言えるかもしれません。しかしたかだか半年の経験で得ただけの自由ではありましたが、その後大学に戻り卒業し就職してからも、その自由のせいでわたしはいつまでも「社会復帰」できないままでした。

 1977 年春に大学を卒業した頃、世の中は既に学生運動もほぼ終焉し、人々の様子は「きれい」になっていました。垢染みた服装の大学生はいなくなり、大人の着る物履く物が全体に高級になったようでした。「おしゃれ」な店や建物がどんどん増えていました。私はなんだか取り残されたような、肩身の狭い気分でした。秋葉原にある宝石の輸入会社に就職して問屋をまわる営業見習いになっても、私はいつも「ここは自分の居場所ではない」思いから逃れられないのでした。この会社は8ヶ月で辞めました。ベタベタ狎れ合っているのに妙に足の引っ張り合いもする組織に、烈しい違和感がありました。「世の中」がみんなそうなら私はこういう「世の中」では生きていけないと思ったのでした。その「世の中」があの異様な光景、不必要にあふれる物のやま、を生み出しているなら余計に無理だろうと感じました。おかしな狎れ合いや足の引っ張り合いのない、もっとまっすぐ自分の仕事だけに向き合いたいと思いました。

 それから40年余り経ちます。若い頃に持った違和感はずいぶん和らぎました。なぜ世の中にこれほど無駄に売り込もうとするものがあふれるのか、ということも少しは理解できたように思います。しかし全面的な解決にはいたらず、なお、金持ちはなぜあくまでも金儲けをしようとするのか、果てしなく金を欲するのか、については未解決のままです。経済だけの問題ではなく、社会全体のシステムの問題であり、ひいては個人の生き方につながる問題であるのはわかりますが、ではどうすればよいのかは見当がつきません。「大衆」は目先のことに汲々とし、支配者は国家を私物化するばかりです。さしあたり私が思いつくのは、もはや誰も革命を必要としていない、必要としているのは権力を狙う個人的な欲望だけだということです。派遣労働者のような悲惨な人々を生み出したのは、そういう法律を作る政治家を「民主的」に選んだ有権者自らだからです。そういう選挙をしておいて、自らを貧困などに追い込むような政治をうらんでいるのが「大衆」だからです。他の選択肢をおいてこちらを選択したのは「大衆」だからです。自らの首を絞めてかえり見ない「大衆」の悲惨な状況は自業自得です。私はいま少なくとも革命は必要ないと考えています。もしやるとすれば、それは私自身が権力を持つためです。そんな革命はありませんが。

 

>> 過去の楓舎小屋便り