過去の楓舎小屋便り

2019/3/27

私は愛国者だったんだ!

 2019年春の夜明け

 春分を過ぎてさすがに夜明けが早くなりました。アルバイト先の夜警で朝の巡回を終える頃に空は明るくなり、そこに来た夜明けを知らせてきます。夜が明ける、それはなんと喜びに満ちていることでしょうか。体中の細胞が沸き立つようです。これは本能としか言いようがありません。人間だけではなく、すべての生物に普遍的な反応ではないのだろうかと思います。山の上だろうが海のそばだろうがいつもの自分の家の前だろうが、日の出を尊く拝む気持ちは自然なことです。元気とか希望とか勇気とか、素直に前に進む気持ちになる時です。私の場合、夜警のアルバイトがある4日に一度この僥倖に巡り会います。

 ところで最近重大なことに気がつきました。私は実は愛国者だったということです。学生時代からずっと反権威、反権力、反多数、さらには多分に非常識で生きてきたことは、何を目指したことだったのだろうかとふと考えたのです。驚いたことにはっきりそれを意識したことがなかったのでした。例えば沖縄の新基地建設に反対するのはなぜかといえば、それが日本という国の主権を毀損するものでしかないから。沖縄の人々の幸福かつ平安な生活を損なうものでしかないから。沖縄の人々の基地建設反対の意向を日本政府もアメリカ政府も米軍もそろって一切斟酌しないで強行するから。日本政府の姿勢は差別でしかないから。沖縄住民の意向を無視するという安倍政権の体質、あるいは目的は、単に沖縄に対してだけのものではなくいずれ必ず全国どこの住民にも向けられるものだから。と考えてみれば、私は日本という国にきちんとした主権があってほしいと思うのです。70年を超えてアメリカの属国てあることは、一国民としてとてつもなくみじめで悲しいことだと感じるのです。従って日本政府には一刻も早く日米安保条約を見直し、白井聡のいう「永続敗戦」を終わらせてほしいのです。そういう正常な政府であってほしいと考えるのです。海外に出かけても「アメリカの植民地」なんて揶揄されることのない国にしたい、そう思うから現在の安倍政権をなんとかして早く終わらせたいとささやかな批判を繰り返すというわけです。しょせん野良犬の遠吠えのようなものですが、根本には自分の生まれてきたこの国が公正で腐敗のない、国民のための政治をする国にしたいという思いがあります。不正がはびこり腐敗臭ぷんぷんの安倍政権は少なくとも私の望む国の政権とはいえない、そういう意味で私はもっとましな国、ましな政権を望む愛国者であるのです。

 これ以上原発を稼働させないことも、これ以上人間の住めなくなる土地を増やさないためです。地震、台風他の災害列島である日本に原発を作ったのは間違いでした。地盤の状態が相対的に安定しているヨーロッパでさえ、原発から再生可能エネルギーへ変換しています。何もかも利権と権力のためにねじ曲げるようなことをしない、まずは国民のための政治をおこなう政府が欲しいと思います。今更こんなことを確認するなんて、うかつではすまされないことですが、悲しいかなこれが私の現在の立ち位置なのです。

2019/2/17

安倍総理:バカが権力を持つとこうなるという見本

 日々自分の恥をさらしていっこうに恥じない「恐るべき貪婪汚吏」ともいうべき安倍総理の「言論の自由」発言が評判になっています。これを耳にした時、瞬時にはどのようにおかしいのか判断できませんでした。言論の自由という思想は「権力に対してもの申す自由」なわけですから、これを権力の頂点にあるものが使うのはそもそも間違いであることを、彼は知らないのですね。もし少しでも知というものの領域につま先でも触れているなら、彼の立場では決して口にできない性格の言葉です。「東大出身」であればなおさらです。一体なぜここまで国民をなめた発言を厚顔に繰り出してくるのかと考えてみれば、おごりです。自分の任期をのばしてまで権力に執着するのも、「選挙に強い」という実績があり「アメリカの評価がよい」から、すでに独裁者気分なのでしょう。ここまでくれば「はだかの王様」でしかないのですが、衆参両院で2/3以上の議席を持つことで次の選挙まではやりたい放題と勘違いしているのです。バカが権力を持つとこうなるという、大変立派な見本となっています。そのうち小中学生の道徳の教科書に登場するかもしれません。

 内田樹は言論の自由についてこう述べています。「言論の自由とは端的に『だれでも言いたいことを言う権利がある』ということではない。発言の正否真偽を判定するのは、発言者本人ではなく(もちろん「神」や独裁者でもなく)、『自由な言論の行き交う場』そのものであるという同意のことである。(ブログ「内田樹の研究室」2019・2・14号「言論の自由についての私見(再録)」より)」 これはつまり言論の自由を前提に発言する時に、その発言の正当性を判断するのは自分ではなく相手であるということです。もし今回の安倍総理の発言をこのようなまな板にのせるなら、既に十分間違いであるという国民の判断がくだされています。そしてもし安倍総理がこのような結果を謙虚に受け入れる知性を持っていれば、先日の岡田元総理大臣とのやり取りで「取り消しなさい!」と言われたときに、取り消したであろうと私は考えるのです。しかし彼はそうするどころかこのときに「言論の自由」をもちだしていなおったというわけです。「『場の審判力』を信じられない人間は『私の言うことは正しい』ということを前提にして語りだすことしかできない。『お前たちが私の言うことを否定しようと、反対しようと、それによって私の言うことの真理性は少しも揺るがない』と言わなければならない。しかしもしそうだとしたら、彼には『自由な言論が行き交う場』に言葉を差し出さなければならないいかなる必然性があるのだろうか。せいぜい、洗脳、宣伝、教化のために功利的に利用することしかできまい。むろんその場合は、彼の言葉に対する疑問や異議申し立ては、『真理』の名において退けられる。だが、そのような言論のありようを『言論の自由』の見事な実現であると思う人間は一人もいない(同上)。」ちょっとまわりくどいですが、今回の安倍総理の「言論の自由」は、ただの宣伝文句か旧民主党政権に対する悪口、あるいは呪いの言葉に過ぎないということです。

 国会という国権の最高機関での議論の場で、反対党への罵詈雑言を権力を持つものが口にする図は、あまりに品のないことです。それだけではなく、最初から議論をする気のない言葉を吐くという国会に対する冒涜行為が、最大の権力者によって行われたことは、これは日本という国家の恥なのです。そしてさらに救いようがないのは、その権力者にまったくその自覚がないことです。こんなリーダーを私たちは選んでしまいました。私たちもまた深く恥じなければなりません。         

 

 

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