過去の楓舎小屋便り

2020/11/25

資本主義的思考の変換期。

2020年 冬の薪

 この冬に焚く薪です。今年は8㎥用意しました。いつものように長さ55cm〜60cmです。まさかりの柄が折れておでこを直撃されたり、チェンソーの修理にのめり込んだり、スモモの実が落ちたところにに大スズメバチが大量に寄ってきたり、あれこれがあって、結局割り終わったのは11月初めになっていました。年齢と体力と周囲の事情に合わせて無理しないこと、なんて考えているととんでもない時間がかかるもんです。

 春先から一気に増大した新型コロナウイルスの蔓延と、経済活動の各種具体的な停止が世界中で続いています。その後国内では「落ち着いたとみられる」からということで始まった「go to キャンペーン」が、第三波の感染拡大で休止や見直し地域が続出しています。経済活動を進めなければならないとは私もその通りだと思います。ただ、その目指す先が「コロナ前と同じようなもうけ」であるという点に違和感があります。素朴に考えて、いまだ収まらないコロナ感染拡大の中でいったい経済活動がどのように可能なのかは誰しも暗中模索でしょう。パンデミックと言われる世界中の感染拡大を、わたしは世界のひとりひとりが「どのように困るのか」について考え直す良い機会ではないかと思うのです。どういうことかというと、確かに生命に関わる感染ですが、それ以外ででは自分は何に困っているのかを考えてみるということです。私の場合、気軽に人を訪ねることがができない、複数人と楽しく酒を飲めない、混み合う場所の楽しみ、たとえばスポーツ観戦、音楽会、映画鑑賞などができなかったり制約があったり、といったところです。ほかには、いつもマスクをつけること、手指消毒がわずらわしいぐらいでしょうか。

 以上のことはある期間無くても生きていくのに絶対必要なことではありません。多少の寂しさ、不便さを我慢しているうちに、ワクチンや治療薬が開発されて、いずれ必ずできるようになります。そうするといま恐れるべきは感染してしまうことです。感染しても持病が無くかつ運が良ければ快復できるのですから、心配になるのは最悪感染しても生き残れるかどうかということになります。ここで思い出すのはブラジル大統領ボルソナロが言い放った次の言葉です。「コロナではなくても、人はいつか死ぬ。」 ある意味悟りの境地とも言えますが、彼が言った意味は別のところにあったので批判されているのですが。それは別としてもボルソナロの言葉は正しいのです。トランプが垂れ流すような嘘ではありません。私たちは誰でも必ず死ぬのです。「コロナでやられたって仕方が無い」 のも、死のある場面とは考えられないでしょうか。となれば、感染することもそう恐れることはないような気がしてきます。ここまでくると、コロナを恐れる原因がなくなります。うーむ、我ながらおかしな結論になってしまいました。

 話を違和感に戻します。現在のコロナが終息したらまたぞろ以前と同じように「成長 」のため邁進するのは違うのではないかということです。産業革命後からの近代社会に限って考えてみます。近代科学を最大の武器に猛スピードで進んできた資本主義は、人もものもほとんど動かせなくなっている現下の状況で改めて考えてみると、もはや人々の幸福につながらなくなっていることがよくわかります。最初から解ってはいましたが、つまり資本家だけがその果実を得られるシステムなのですね。そして現在はその究極の姿になっているようです。私たち庶民の幸福はどんどん遠ざかっていくことになります。そろそろ真剣に資本主義的な考え方を改める時です。近代文明の象徴とも言うべき航空業界がいまや壊滅的な打撃を受けていますが、二酸化炭素の排出量は劇的に減っているそうです。貿易量も激減して、これまた物流によって引き起こされる二酸化炭素の排出量が減っているそうです。どちらも、地球環境にとっては良いことが起きています。しかし「経済 」としては大損失です。環境悪化で人類がこの地球に住めなくなれば経済もくそもありませんから、ここはやはり偶然とはいえ私は前者を評価すべきと考えています。

 日本学術会議の6人の任命拒否問題がさわがしいですが、私はその問題点とは違うことを感じています。上で述べた「近代科学と資本主義の関係 」でいえば、あらたな科学技術はなお私たち庶民にとって必要なのか? ということなのです。確かに「必要は発明の母 」が真実で、科学技術が人類の幸福に寄与したことは多々あります。しかし75年前の戦争でアメリカが日本に落とした原子爆弾は、まったく逆のことを証明しました。戦争の勝敗ということだけではなく、その後長く人間を不幸のままにしているのです。戦争にさえ使っていけない悪魔の手段です。また、つい9年前に起きた福島原発の爆発事故はどうでしょう。原爆ほどの残虐さは目に見えませんが、しかし人々を不幸に陥れたのは間違いありません。この二つの例をみるだけでも、原子に関わる科学技術は人類の幸福には貢献しません。ではなぜこんな「不幸の素 」は開発されたのか。原爆は戦争に勝つため(一説には手にした武器の威力を、単に、試してみたいという理由だったとも言われています )であり、原発はこれまた単純に金儲けのためです。少なくとも「人類全体の必要 」があって作られたものではないのです。

 現在私たちが必要とする科学技術とは何でしょうか? あるいは、こんなものなくてもいいのにという技術はないでしょうか? このコロナ禍をよい機会としてよくよく見回してみても、人類が、どうしても、切実に、いますぐに必要な新たな技術はそんなに思い当たらないのではないでしょうか。 地球環境改善・保護のための自然エネルギー関連技術、二酸化炭素排出をなくすための技術、ぐらいでしょうか。それ以外の新技術を欲しがり開発しているのは、支配欲にかられた政治家が口にする軍事技術であり、金儲けだけのために資本家が要求する技術だけと言っても良いかもしれません。かつて開発されたたとえば化石燃料を動力減とする自動車や工場はいまや「悪者 」扱いです。そのなかで、私たち庶民が必要としている科学技術はごくわずかですし、日常生活にこれ以上何か切実に必要とするものはもはや無いとも言える段階にいます。これ以上「科学技術一般 」は必要ではなく、よくよく検討した特別な目的のための技術だけが必要になっているとは言えないでしょうか。こうなると水野和夫が指摘しているように、資本主義の「より速く 」「より遠くへ 」「より多く 」という本質からはもはや脱落しています。つまりこれ以上資本主義に依存する必然性は消滅しているのです。 私たちが日頃無意識に考える「もっと働いて 」「もっともうける」というような発想もやはり変えていく必要があります。

 日本学術会議がこれまで三回表明している、「軍事関連の技術開発は慎重に 」という決議は、わたしは過去の反省をふまえたきわめて人間味にあふれた真っ当な見識だと思うのです。軍事技術は決して人々を幸福にはしないのですから。「民政用に転換できる技術もある 」と言う者の詭弁は無効です。民生用に必要なら民生用としてはじめからそのようなものとして開発できるのですから。日本学術会議には、今後は上記のような人類全体にとって、同時に地球環境にとってどんな技術が有効なのか、あるいは必要なのか、このあたりまで踏み込んだ議論を期待しています。

 

 

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